綴る

思った言葉をありのままに。文にならなくてもいいじゃない( (◕ . ◕( )⊃ )20歳なりの考え

私は写真がすごく嫌いだった。

 

うまく笑えない

他の子よりも背が高い

現社会でいう「盛れない」ことは

しょっちゅうだし

今も決して克服したとはいえない。

 

真実だけを映すもの...

写真はある一瞬をおさめたものだ。

二度と同じ空間は

作り出せないだろう。

 

あの時と同じ服装、同じ友達

化粧....天気。

すべてを揃えても同じ私をもう一度

作り出すのは難しいのだ。

 

だから人間は

一瞬一瞬を大切にし

子供の成長はいつでも目に見える

ある一種の「記録の一瞬」として

残していくのだろう。

 

昔の写真を見て

中には涙ぐむ人もいる。

その当時の記憶が一枚の写真によって

当人に蘇ってくるのだ。

 

生き別れた家族、突然失踪した

兄弟やペットを求め

尋ね人として張り出される広告。

 

自分にとって無関心なことであっても

その写真がふと目に入った時

同じ人間であることにより感じる

なにか良くわからない感情。

 

(かわいそう、早く見つかるといいのに

どうしていなくなったの?家族は待ってるのに)

 

一瞬のその表情や情景から

人間は深く読み取ろうとする。

私はその生まれ持った性質に

とても感動している。

 

けれど

自分にとって不都合であることまで

はっきりと映り

人が何気なく深く探ったことにより

人を傷つけることも時にはあるのだ。

 

「ホント背が高いよな〜お前」

「ひとりだけデブがいるぞ〜」

 

周りと比べられる写真に写った自分に

羞恥や、怒り悲しみを覚えた人も

少なくないだろう。

 

残酷なものだ

だけど人間はやはり

映った出来事を、写真を

大切にしてしまう。

 

盛れる角度、詐欺写メ

そんな言葉で自分をありのまま

映さない人は

きっと何かコンプレックスを

必死に隠して生きているのだろう。

 

肌が白くなりたいから

光を飛ばす。

そこに写った一瞬の私は

あくまで自分の理想なのだ。

 

ふと鏡を見ると

現実に引き戻される。

 

これから

もっともっと人は現実から

逃れ偽り生きていくのだろう。

 

私が、満足がいき笑えた写真が

もし撮れたとして

それすら偽りと思われることに

なるのだろうか。

 

写真はなんて残酷で

素晴らしいものなのだろうか。