綴る

思った言葉をありのままに。文にならなくてもいいじゃない( (◕ . ◕( )⊃ )20歳なりの考え

 またね 。

「また明日ね」と「明日ね」は
同じように見える。


でも またがつくだけで
明日も明後日も同じように
会える気がしてしまうのだ。

 

「また」一緒にいれるのか

と思えるこの安心感を

たった2文字で表してしまう。

 

本当にすごい、日本語は奥深い

「ま」と「た」が

合わさっただけであるのに。

 

最近、「また」のついていない
さようなら と バイバイという挨拶は

もしかしたら明日が

永遠の別れに

なってしまうかもしれないという

ニュアンスが含まれてるんではと

考えてしまう。

 

自分はばからしい

そんなふうに思う。

小学校の帰りの挨拶なんて

「先生、さようなら」というのが

一般的であり

「またね〜」が許されるのは

せいぜい反抗期の中学生がふざけて

担任や生徒指導の先生に向けて

使う時くらいまでであろう。

 

大人になるにつれて

「さようなら、失礼いたします」が

当たり前になり

「また」が聞けるのはお店くらいなのだ。

 

「またお越しくださいませ」

 

帰り際の店員のその言葉で

美味しかったらまた来ようとか

今度はいつ来ようかなどと考えたり。

 

機会があれば再びここを

訪れることが出来る、

いつでも待っていてくれる

気がするのだ。

 

それが永遠の別れであったとしても

 

言葉の選別は難しい

再び、また。似た言葉。

 

私は、またね と バイバイ

使い分けるであろう。

たまに間違うこと誤ることがあっても。

 

いつか私が

またね と言ったら
私はどこにいても

また同じように同じ場所へ帰ってくる。

 

でも
バイバイ、さようならと言ったら
私はもうここには戻ってこない。