綴る

思った言葉をありのままに。文にならなくてもいいじゃない( (◕ . ◕( )⊃ )20歳なりの考え

 

「好きな人の前だと心を

許しちゃうんだよね、わかるわかる。」

そんな言葉が今日もSNSにあふれている。

 

いや違う、この人達は何も

知らない。

どう感じどう思うかは誰にも

わからない、知るはずもないのだ。

 

自分の感情を、また世間一般論を

全ての人に当てはめてしまうのは

今の世の中、SNSという顔も名前も

知らない世界の中では当たり前であり

仕方の無いことなのだろうか。

 

相手はきっとこういう人なのであろう、という先入観。

それは変わらぬものとなり自分の中での

存在として形づけられていく。

 

私は配信サイトを利用し、

そして1000人を超えるフォロワーを持つアカウントを持っている。

自慢にもならない、なぜなら

今となっては自己満アカウントだから。

 

これは高校生の時に作ったものだ。

携帯を初めて持った時

いろいろなアプリケーションの多さ

そして怖さを知った。

君何歳なの?ライン交換しようか?

そんな言葉に簡単にのる友達。

 

「必要」とされているんだよ私。

 

その一言で私は変わってしまった。

友達、先輩、先生、親……

本当に自分は必要と

されているのだろうか。

 

女子はトイレに行くのも

ご飯を食べるのも群れで移動する。

たとえひとりいなくなっても

リーダーが要らないと思えば

まわりも暗黙の了解になるのだ。

 

その中わたしは、できるだけ

たくさんの人に自分自身を

認知してもらいたいと思った。

 

携帯をとり私は「Twitter」を

インストールした。

アプリ上では、好きな人と好きな話を

尽きることなく話ができる。

フォロワー数が多いと有名になれる。

 

またネット上では

顔、性格、イメージ全てを作ることが

できる。いわゆる理想の自分だ。

こんな私だけれどネット上なら

沢山愛されるだろうか。

毎日そんなことばかり考えていた。

 

数年経ち、誕生日になれば

ハッシュタグをつけて何百人の人が

祝ってくれた。私の存在を

全国のネット上の人がネット上の

「作られた私」を祝ってくれているのだ。

 

その瞬間

現実がなにかものたりなくなった

そして、なんとも言えぬ優越感に

浸っていた。気づいたらその沼から

抜け出せなくなっていた。

 

配信すれば、私を

待ってくれている人がいる

「ただいま」と言えば「おかえり」と

言ってくれる母のようであった。

 

そして、好きだと言ってくれる

言葉ひとつひとつは

ホカホカの温かいご飯のようだった、

あたたかみを感じた。

 

でも最近思ったのだ、

彼らが愛してくれているのは

SNS上のわたしであるから。

先入観は固定的である、変えられない

 

だけどゆっくり本当の私を

愛していってくれたらいいなと思う

 

よくわからない文が今日は

まとまらないようだ。

難しい、出口のないトンネルとは

この事か。

 

とりあえず

SNSをうまく活用したい。以上