綴る

思った言葉をありのままに。文にならなくてもいいじゃない( (◕ . ◕( )⊃ )20歳なりの考え

今、私はバイトを休職し

休日は朝起きてご飯をたまに食べ

掃除をし寝る生活のサイクルを

ひたすらに繰り返している。

 

必要最低限しか動かず

携帯とテレビをみて

夜になれば好きな人と電話をし

そのまま寝落ち

朝まで繋ぎっぱなしという

そんな毎日だ。

 

自分から殻にこもる生活を

選んでいるのは

外がとてつもなく怖いから

 

後ろに誰かいるのでは、

ドアの向こうで待ち伏せされているかも

そんな怖い考えが自分自身を

苦しめている。

 

寝ている途中

追いかけられる夢を何度も見る。

 

逃げて逃げて

最後には殺されるよりも

もっともっと苦しくて痛い

何かを味わっている自分を

何故か鮮明に覚えている。

 

ほかの夢は簡単に忘れてしまうのに

この夢だけは何年も私を苦しめてきた。

 

そんな悪夢の後は

絶対に外に出たくないの

できれば誰かといたい

そんなふうにも思う。

 

(こんな時に好きな人が

そばにいてくれたらなぁ...)なんて

漫画みたいなことも思う、

彼は遠くに住んでいるし

頻繁に会えないのは当たり前だ。

 

それくらい大学生だし

わかる、わかる、わかる...のだけど。

 

とても不安で不安で

いろんなことが

先の見えない不安とかなんとか

全部が自分をどんどん苦しめていく。

 

メンヘラ?病み?

違う

もう私は言葉で言い表せられない

何かにとりつかれている

過去と夢と不安の入り混じった何か

怖いものに。

 

一つ一つに確信を持たないと

行動に移せない

自分の足場をカチカチに固めて

進んでいく

ことわざでいえば

石橋を叩いて渡るってかんじ。

 

でも石橋だって

いつ崩れるかわからない、

老朽化が進みコンクリート

落ちてきたニュースも

先日報道されたばかりである。

 

崩れた時、つまり

自分の予想の答えと食い違うと

そこから一気に

怖い、無理だ という感情が芽生え

殻の奥へさらにひきこもる。

 

いつになったら

本当に幸せになれるのか?とか

こんな不安を取り除けるかって

考えている私。

 

まずは そっと

携帯のこの画面を閉じてみればいいんだ

人と比べるからいけないんだ

 

いろんなことを

ネットで知ってしまったから

いけないんだ

 

ってことに気づいたよ、

いま(2016/09/25 01:34:37)。

 

遅いね、たぶん

もっと前から気づいていたはずなのに

やめられなくなってた。

 

明日は1日携帯を

置いておこう。

そして少しふらっと旅に出て

殻。捨ててこよっと

 

 

 

好きなことに時間を費やせる

それ以上の幸せはない。

時間に縛られて生きるわたしは

自分にかける時間が足りなくなると

見える「形」として

自身に何かしら現れることがある。

 

ひどい頭痛がする、なんとなく

気分がすぐれない…

自分の限界を超えたとき

(倒れる、意識を失う)

時間に縛られている私は

やっと「休暇」という自由を

与えられる。

 

しかし休みを与えられる事と

なったとき

何かをしていないと心が落ち着かず

結局休むことができないという人を

よく見る。

 

暇な時の方が時間の使い方が

下手になってしまったりもする。

それではせっかくの休みは

ただの人生の無駄な時間として

カウントされる。

 

何かが行われる時

その物事に費やされる時間を

予め予想し

スケジュール表を立てる。

 

時間を多く見積もる場合は

それだけ人を長くそのスケジュールで

拘束し縛ることになる、しかし

少なく見積もれば何かしらの

トラブルなどで事が

スムーズに進まない時に

それ以降に予定されていること全てに

影響が出てしまうため結局は

大幅なろすになってしまう。

 

差を縮めるのには各グループや

個人個人が協力しなければならない。

本日改めて大変だなと思った。

社会にでたら1分、1秒の遅れやミスが

命取りになるのかもしれない。

 

でもそもそもどうして

この世界は

時間の区切りがきっちりと

しているのだろう。

 

もっと自由に、きままに

好きな時に好きなことをしたい

 

そんな社会には

人間の欲が今よりずっと少なくなったら

可能になるかもしれない。

 

時間に縛られる生活はいやだ、

自由な生活がいい。

 

規則、時間がなければ

大人数はまとめることができない?

そんな事は無いと思う。

 

ああ解放されたい

 

 

 

 

 

これは日記か?それともブログか?

そう聞かれる。

日記は日々の出来事を

記録するものである。

私のこのつらつらと記された文章は

日記6割ブログ4割である。

 

外国の方々が毎日就寝前に

信仰する宗教の

神々に対してお祈りをささげるのに対し

我々日本人に特にそういった習慣は

確認出来ず

 

寝る前に一冊の本

寝る前に深呼吸をする等 

「様々な習慣」を自分で形作っている

ことが多い。

 

その中で日記は

自分の寝るまでの出来事を思い返し

書き記すことにより

ひとつひとつがその日の記憶、記録と

なる。

 

大人になって読み返してみると

案外仕事で行き詰まった時の

イデアとなるものがそこには

記されているかもしれない。

 

日記という媒体には

書いた本人だけが分かる真実が

必ずどこかしらに隠されている。

文字となり記されているものであっても

メールの文面の様に

絵文字一つないと人によって

様々な捉え方をする現代人がその例である。

 

芸能人が

例えばプライベートの

私情なんかも垣間みえる日記を書き

公開したとする。

ファンにとっては

「私生活もすばらしいし

魅力が溢れているであろう」

としか想像しない

むしろできないだろう。好きな人だから。

 

その芸能人

少しでも自分のキャラや見た目

テレビで見られるような性格に

見合わないことを書けば

ネット上ですぐさま話題となる。

 

大変だよなぁ

 

万人受けの記事を書いてしまったら

それはもう日記ではないのだ。

日々のありのままのすべてを書くなら

「日記」などというタイトルのブログは

適切ではないのかもしれない。

 

最近かいた全てのことに

何ら偽りはない。

ネット上で偽ってきた

創り上げられた「自分」には

さようならをした。

 

だからこれをはじめたのだ。

毎日不定期に携帯に向かい

綴るひとつひとつは

誰かに届いて欲しいわけではなく

共感してうんうん、と

言わせたいわけでもない。

 

あくまで頭に浮かんだ

ぽつりぽつりとした出来事や考えを

少し自分なりの言葉でまとめて

記しただけである。

 

SNSのダイレクトメッセージで

感想が届いた。

こんなふうに書けること

すごいと思う。

 

これはほぼ日記なのだ、

評価されるのは、夏休みに書いた

絵日記以来であろうか

なんとも、言葉にできない

感情に浸った。

 

この内容を見てくれた貴方は

何を思ったか、

気にならないわけでない。

ただ、影響されないでほしい

あくまでこれは日記だから。

 

 

とある山の中にきた。

 

湖が大きく広がっている

素敵な場所であった。

少し新しいのか、塗りたてなのか

わからぬ足こぎボートが

いくつも浮かんでいた。

 

涼しく過ごしやすい

緑の多いこの場所で音楽を奏でる事が

できる幸せ。

 

幹事と役員、そして

提供してくださった宿泊所の

方々に感謝したい。

 

私は合宿で

ここに来た。

音楽を仲間と楽しみ

演奏することはとても幸せで

私は昔から好きだった

 

しかし

集団で宿泊する事が

苦手である私にとって

学校行事などの「合宿」ほど

苦痛に感じたことは無い。

 

衣食住を共にする。

普段学校で見ている

「彼女たち」「彼ら」とは別な

プライベートが明かされるのだ。

自分の習慣や寝る体勢、

スケジュールの組まれていない

時間の使い方など。

 

その人を印象を変える

大きな要因にもなりかねないと

常常思う。

 

私は集団の中に

自分の空間を作り

知らぬ間にバリアを張る。

そこの中だけが唯一の

心安らぐ居場所かのように。

 

バリアを張ったらまずは目を閉じる。

目を閉じることによって

人は視覚情報をほぼ遮断する。

そのことによって

聴く、触れるという

別の器官による情報がより繊細に

感じられるようになると思う。

 

聴覚によって捉えた情報を一つずつ

より正確に整理し記憶する、

私はバリアの中で

よくこの状態に陥る。

「起きてる?ぼーっとしてる?」

そういう事を聞かれる時は大抵

自分の空間に

引きこもって瞑想している時である。

 

集団の中で

己のすべてをオープンにして

受け入れられなかった時が怖い。

自分の領域に足を踏み入れ

全てを否定され貶される事が怖い。

 

だからバリアを張るのだろう。

 

何かと

「怖い」という理由をつけて

盾を持って逃げているだけかもしれない。

そうだとしても私は

ゆっくりゆっくり

少しずつ変われたらいいな、そう思って

毎日生きている。

 

先日 「自律神経失調症」の症状が

多く見られると言われた。

手の荒れをはじめとし、食欲不振

イライラ、感情の制御不能…

 

相手の言葉 ひとつひとつで

また、自分自身の言葉ひとつひとつが

この病を左右するらしい。

優しい言葉で満たされるだけでは

治らないだろう。

時にはきちんと

叱ってもらわなければいけない。

 

人間が相手言う言葉や

伝える文章には

少なからず意味があるから

わからないと思う事はその都度

辞書で調べることにした

 

私は今こうして

ほんの少しずつ見えない努力を

積み重ねている。

…(つもりかもしれない)と

言われればそれまでなのかも。

 

変わりたい、変えよう

少しづつ好きなことに手をつけ

頑張っていこう

そう決めたからには、やるのだ。

毎日 毎日心で唱えている。

 

見えないものと闘うって

なんだかかっこいい響きだし

勝てたらそれはスーパーマンレベルと

誇っていいのではないか。

 

社会にでたら

人といっぱい接する機会があり

自分のすべてを知ってもらい

受け入れてくれる人

(それは仲間であったり、上司、仕事の顧客かもしれない)を探すことに

なるだろう。

 

今 この場所に

何人自分のことをすべて理解してくれる

人がいるだろう

闘いに勝ち祝杯をあげ

自分のことのように喜び泣いてくれる

人はいるだろうか?

 

ガードをゆっくりと溶かしていき

隙間からそっと手を差し伸べてくれる、

そんな人はいるだろうか。

 

夜。いま。散歩道

澄んでいるはずの山の空気が

まずい

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は歌を歌っていた

好きなバンドの歌を楽しそうに。

 

電話越し、口ずさんでいる歌は何か

イントロドンのように

当てようとしたが

私はその曲を知らなかった。

彼はバンド名を教えてくれた。

 

自分が好きな系統であった

ここは外せないっていう要素が

たくさん取り込まれていた

でもこれは、まだ少し聞いただけの

感想であって

深く彼らの曲を聴くことをしていない。

だからゆっくり今度

コーヒーを飲みながらでも聴こうと考えた。

 

自分の思うことを

こうして言葉にしているが

彼らは「歌」の歌詞という形にし

音にして私たちに届けてくれている。

 

それを聞いて

よく捉える人もいれば

悪く捉える人もいるだろう

人間の感じ方の違いだ。

いい曲ねって

どこからそう感じとるんだろう

歌詞、メロディー、雰囲気

どれでもいいと思う。

 

好きな部分は人それぞれ

どのバンドのどの部分が好きか

十人十色でいいとわたしは考えた。

 

バンド一つをベッドに例えると

足がファン、布団やまくらが

その活動をサポートするものとしよう、

ふかふかの最上級のベッドで寝るのは

とても気持ちいい。

 

しかし足場がぐらつき

安い布団が敷かれただけでは

体が簡単に沈み込み姿勢がくずれ

安眠にはつけないだろう。

 

ファンそれぞれが思い思いの

場所につけば安定するし

それだけ支えがあれば

布団・枕側にまわることもでき

最高の状態になるかも、なんて

思ったりするのだ。

 

私の好きなバンドが

誰かに好きになってもらえたら

それは嬉しい。

 

同じ感情を持たなくていい、

聞いた時 何を思ったか

黙って聞いてあげること

それを受け入れられることができると

 

改めて聴く その曲が

もっと素晴らしいものに聴こえてくるかもしれない。

 

 

 

 

「そんな事で嬉しくなっちゃうになれるなんてお前はホント幸せなやつだな〜」

 

ドラマでそんな言葉を聞いた。

私はその「幸せ」をみているだけでも

感じたのに

どうしてこの男の人は幸せに

思わないのだろう。

 

逆に男の人の立場になってみた。

こんなことによって

「幸せ」と感じる人は、

どうしてこんなことに幸せを感じて

いるのだろう……

と思っているのだろう。

 

幸せの度合いは人によって違うし

感じ方も違う。

 

久しぶりに実家に帰って

ご飯を食べたら

ああ、懐かしい……おいしいと感じ

ついついSNSで共有したくなる

そういう人は多く見られる。

 

でも大人になるにつれて

人は忙しくなり、またその中で

お酒を飲んだり ストレスを発散する

ことに幸せを感じるように

なるであろう。

 

しゃべることが好き、食べることが好き

寝ることが好き、エッチすることが好き

欲が満たされたら幸せになれるか。

 

私は好きな音楽を聴き

好きなものを食べ、好きな時間を過ごしている時が一番幸せである。

 

たとえ

好きな食べ物が

28円のもやしであっても

何万円のうにであっても

その人が好きなものには変わりない

それを食べて幸せだと思えれば

それがその人の幸せなのだ。

 

だから

こんなので幸せを感じるなんて

 

そんな言葉はおかしいと、わたしは

おもってしまった。

 

いいじゃない幸せだもの

 

人に自分の感情、自分の定義

度合いやはかりをはめては

いけないとおもうんだ。ね?

 

とか言ってる私の文を読んで

影響されたら同じことよ。

ながしてよんで

少しだけしか興味の無い

広告のように。

 

 

 

 

秋に近づくと寂しくなって

泣きそうになる。

我慢しても夜1人で布団に入ると

ほろほろと頬を涙がつたう。

まるで何か一つの

物語のワンシーンのように……

 

寂しいから泣くのか嬉しいから泣くのか

わからない感情

その自分に泣いているのかもしれない。

 

楽しそうに笑う声が

外を静かに過ぎていって

どのくらいだっただろう静けさに

戻った時には

もう秋の音しかしなくて。

 

その中でゆっくり

自分のことを考えたり

相手のことを想ったり。

本を読んでもいいと思う、

ただそこに携帯などはいらない。

 

月明かりだけ

もしくはいい香りのキャンドルに

火をつけて

幸せな時間を過ごしたい。

 

恋人とそういうことをするのも

いいかもしれない

あつあつほかほかになり

満たされるだろう。

なかなか会えない好きな人を抱きしめて

泣きながら幸せだねって

ふと言葉を漏らすのもいい。

 

そんな幸せなことを考えている時

思い出した。

 

私は高校の夏休み、

いつものように早朝部活に

向かう途中

知らない男の人に襲われた。

 

後ろから服をめくられ

抵抗する私を

自転車ごと深い側溝に落とした。

犯人は落ちたのを確認すると

一目散に逃げていった。

 

私は相手の目を見た

でも、思い出せないのだ。

人は思い出したくない辛い出来事は

記憶から消してしまうらしい、

事件の事は忘れないのに

相手の容姿とかは何も思い出せないのだ。

 

高畑容疑者が強姦致傷と

ニュースで伝えられたとき

未だに私にとって

身体にも心にも深い傷を負わせた

犯人がまだ捕まっていないことを

思い出した。

 

幸せな事を考えていると

辛いことがでてくる

 

今日 9/15。

あの時からもう

そんなに経ったんだな。

幸せが辛くなる、そうか。

日が近づくとまだ心が癒されてなくて

気づかないうちに心が

泣いていたんだ。と思った

 

ごめんねわたしの心

いっぱい悲しませてしまったね

辛かったね

 

中秋の名月すこし

欠けているかもしれない

わたしの心みたいね

 

いつかあの頃の私みたいに

なれるかな

満ち足りた幸せいっぱいの。

 

あの時の犯人はいまどこに

いるんだろうか

強姦致傷罪は無期、または5年以上の

懲役。

3年を超える懲役刑の場合

執行猶予はつかない。

起訴された場合、裁判員裁判となり

情状酌量が考慮されない限り

実刑判決となる可能性が極めて高い。(引用元 : スポーツ報知http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160823-OHT1T50051.html)

 

とされる。

裁かれて欲しい、私の好きな秋を

返して欲しい。

今年こそは幸せな秋をあなたと。