綴る

思った言葉をありのままに。文にならなくてもいいじゃない( (◕ . ◕( )⊃ )20歳なりの考え

手先が冷たい。

もうすぐそこまで

冬が来ているのだろうか。

温かいお味噌汁やほかほかのおでんが

無性に食べたくなる季節である。

 

毛布を被りテレビを見て

CMになれば携帯。

ぐうたらしているようだが

私にとっては至福のひとときである。

 

ふと窓の外を見ると

楽しそうなカップルがくっつき

買い物袋を手に歩いていた。

 

なんとも暖かそうである。

彼女は笑いながら

「ホカホカだね」と言っている。

 

室内にいて尚かつ毛布を

身にまとっている私でさえ

寒さに震えているのに

ホカホカとは何事だ。

 

人の温もりってなんだろう?と

その時、ふと考えた。

 

彼らは外にいるにも関わらず

くっついているから

寒さなど微塵も感じないと話していた。

 

不思議である。

触れているのは人間の体表面

しかも片側面に過ぎないのに。

 

電車などで前に座ってた人の

なんとも言えぬあたたかみを感じる...

そんな経験が人間一度はあるだろう。

 

座る時はお尻しか触れていないのに

全身がその温かさに包まれるかの様だ。

(私はその温かさが苦手だから

あまり椅子に座りたくない)

 

温もりは、唾液や鼻水のように

「出します!出ました!

出ちゃいました!」といって

自分から分泌されるわけでもないし

温度調節が可能なわけでもない。

肌と肌、または何かを通して

感じられるものだ。

 

でもその温もり自体が何かと問われたら

その答えは人それぞれであるだろうし

簡単に定義できないと思う。

 

また、触れているその表面が

何度であるから温かいですねと

数値で示されても

いまいちピンとこないだろう。

 

温もりは表せないから

いいのかもしれない。

 

結局自分の問いの答えに

未だたどり着いていない、

でも ひとつ思うのだ。

 

温もりが示す「温かさ」

それがカイロでもストーブでも

なんでもいいとしたら

「温もりが欲しい季節」

なんて言葉はいらないかもしれない。

 

「暖房器具が欲しい季節」の方が

明確で且つ、理解しやすい温かさを

示す言葉である気がするのだ。

 

温もりは現代の科学において

どう解明されているのだろうか。

とても気になる。

 

基礎体温が低くても温もりは

感じるのか?

生き物からでなければ

温もりは感じることができないのか?

 

このテーマについては疑問が尽きない。

 

今日もまた

私は毛布をかぶり

一人静かにこの記事を書く。

 

だんだんと冷えきっていた体が

熱を帯びていく気がしてきた。

 

この温かみは

温もりなのだろうか...

 

 

 

 

人は欲の尽きない生き物で

あれが欲しいこれが欲しいと

常に何かを欲している。

 

世の中が便利になればなるほど

企業は「更に」便利な機能を

我社はつけましたと商品を告知する。

 

消費者の次々と変化する

ニーズに応えた数々の商品は、

ターゲットとする世代層から抽出した

何人かの被験者に試してもらい

実際の効果を書きとめ

改善点を次回の試作に生かし...

納得がいったところでやっと

商品化に向けて本格的に動いていく。

 

その繰り返しから

生まれているのだと思うと

身の回りにある、あれもこれも

とても愛着が湧いてくる。

 

でも身の回りにあるものをよく見ると

なぜ買ったかわからないものも

たまにあったりする。

 

確かにあればそこに存在感は

あるのだが

生かしきれてないものが溢れている。

(花瓶もほこりをかぶっただけなら

ただの空き瓶と変わらないだろう)

 

一人暮らしを始めてからというもの

私は電化製品や

100円SHOPの数々の商品に

とても関心がある。

 

電化製品でいうと

今の「オーブンレンジ」。

人工知能がついていたり、

家にある食材から作れるメニューを

提案してくれたりと

家事の負担を減らしてくれる

素晴らしいものになっている。

 

お皿に材料を載せ

あとはいれてまつだけ、という

流行りの簡単時短レシピは

特に共働き、子供のいる家庭の人々に

心の余裕を持たせることや

家族時間の増加に繋がると思うので

私はとても画期的だと感じた。

 

また、余分な脂肪分をカットしてくれる

ノンフライの揚げ物も可能になり

体重や体脂肪を気にしていて

油分をカットをしたい人々にとっては

これもまた嬉しい機能の一つだ。

 

これからオーブンレンジが

さらに進化を遂げるとしたら

自動で焼き加減を判断し

均等に火を通し

焼き目をつけてくれる...

そんな便利な機能がつくような

気がする。(あくまで私の希望)

 

100円SHOPでいうと

安いだけ、100円クオリティーの

イメージが染み付いていたが、

 

最近では

可愛い × 役に立つ ものが多く

季節ごとのオーナメントや

食品、化粧品の取り扱いも

以前に比べ格段に増えた。

 

同じ系統ごと、棚に並んでいると

ついつい買うつもりのなかったものまで欲しくなってしまう。

これも売り手の狙いの一つだろうか。

 

薄い木材で出来た棚は

引き出しと棚本体が別売りになっており

324円分

(本体×1.棚×2 の 合計3個分の値段)で

1つの商品として成り立つという物だ。

安いように見えて

なんともよくできた商品があるものだ。

 

「安いし、長年持たなくても

失くしてもいいや!108円なら!」

と、カゴにポイポイいれると

案外高い買い物になってしまったりも

するものだ。というのは

その例の一つであろう。

 

そんな上記の商品も

少し改良が加えられたり

全く新しく人々の口コミで広まれば

瞬く間に消費者たちの手で作られた

「流行り・売れ筋商品」ができ、

SNSで芸能人などが

写真をアップすればより宣伝効果として

大きいものとなる。

 

もしその商品よりも質がよく

値段も手頃で

大変性能が良いものがあったとしても

見つけづらいだろう。

 

人は金額が大きければ大きい買い物ほど

「試し買い」はしなくなる。

よって、強力な口コミなどを頼りに

確実なものを選んでいく...

その結果

実はより良い商品が

別の商品の話題に埋もれてしまい

売れない目立たないサイクルが

起きてしまうのだ。

 

あれが欲しいこれが気になるとは

言っても

全ては叶わないわけで

 

結果、自分の中での

評価全てにおいて高得点であり

周りのみんな(消費者)が

満足しているものを便乗して

買っている。

 

消費者によって作られた

いい商品ランキングは

本当に正しいかは分からないけれど

これからもっともっと

「便利・簡単」という売り文句で

世の中に出回る商品も多くなると

思う。

 

自分が何を基準に選択し

楽・便利になることでおこる

メリットとデメリットを

あらかじめ文字に書き起こし比較し

慎重に購入することで

真の良品を見つけ、

 

消費者(買い手)が

本当に満足度の高い商品の

ランキングや口コミを

作成することができると

私は考える。



それどこ大賞「買い物」
それどこ大賞「買い物」バナー

恋人と連絡を絶ってみた。

思っていたよりも悲しくなかったし

いい機会になると思った。

きっと五日くらい経てば

後悔もするだろう、それでいい。

 

昨日の夜、友達と電話をしていた

彼を待っていたのだが

少し待っててと言ってから

なかなか連絡が無い。

 

久々のバイトと外食をした後の眠さで

私は1時間たった頃

苛立ちおぼえていた。

 

「デートで恋人が遅れてきた時あなたは

何時間までなら待てますか?」

という問いに対して

・遅れること自体が論外

・好きな人だから何時間も待つ

両極端な答えが出たのを思い出した。

 

私は、忙しいのなら

電話ができないと

きっぱり断って欲しかった、でも

少し待てば電話できるのだと思い

Twitterで暇つぶしをした。

 

すると友人に察された

「だいたいあんたがTwitterに浮上して

連投してる時って

喧嘩か話が拗れたかの

どっちかでしょうよ。」と言われた。

 

流石である。

どうやらTwitterを見れば

私の今の状態を察せるらしい。

 

そんなこんなで朝

話をしたのだがまとまらない。

私は互いに感情的になっていると思い

自分から二週間後連絡すると

送った。

 

きっとその場面すべては

文字にはできないし

お互いしか、自分にしか

わからない感情もあるだろう。

 

こういう試練も必要なのだろう

全てうまくはいかないのが人間である。

それにしてもどうして私は

こんなに不器用なのだろう。

 

「うんうん、ごめんねそうだね。」

多少相手に非があるとしても

そう言って優しく諭せば

話も拗れなかったのかもしれない。

 

でも全力で真っ向から当たれるのは

それだけ好きだからであると

思っている。

傷ついて傷つけて

でもやっぱり後悔しながら

ゆっくり成長したい。

 

はやくはやくじかんよ

経て。

 

 

 

繋(short Ver.)

いつも全てを理解できて

わかる人なんていないと

自分の殻に閉じこもっていた私を

友達は救ってくれた。

 

決して友達がいなかった訳では無いが

自分の悩みや辛いことは

迷惑をかけたくないがために

自分の内に秘めるか

ネットに書き込んでいる毎日を

過ごしていた気がする。

 

たくさん認知され

心配の言葉が見える形となり

媒体を通じて人と人が繋がり

時には命すら救う。

(たまに奪うこともある)

 

今日もまた私は救われている。

味方がいる、誰にも奪えないし

壊せない強力な味方だ。

ネットで繋がった人たちは

たくさん自分を肯定してくれるから

とても好き。

 

ありがとう、

今日もよろしくね

画面だけのつながり。

 

哲 (short Ver.)

学校のよくわからない

かたっくるしい

哲学の授業が好きだ。

 

答えがないから

いろんな考えがある

「答えは十人十色でいいのよ」と

唯一認めてくれている気がしてしまう。

 

数学や理科系の実験は

正しい答えを見つけ

導いた過程すら求められる。

 

時には正しい分量だったり

正しい長さが必要で

やらなければいけないことも

あるのだろうが。

 

人それぞれの結果

それが正しいと思えば

世の中に誤りなんて無いはず。

 

でも、行き過ぎた結果になった物が

凶悪事件や事故を引き起こすのだろう。

 

世の中のひとりひとりが

認められる世界が

はやくできたらいいのに。

 

ひとりひとりの結果、考えを

どうにか尊重できるような

仕組みはないだろうか。

 

今日も少しぬるめのコーヒーを飲み

肩ひじをついて考える。

 

 

 

 

 またね 。

「また明日ね」と「明日ね」は
同じように見える。


でも またがつくだけで
明日も明後日も同じように
会える気がしてしまうのだ。

 

「また」一緒にいれるのか

と思えるこの安心感を

たった2文字で表してしまう。

 

本当にすごい、日本語は奥深い

「ま」と「た」が

合わさっただけであるのに。

 

最近、「また」のついていない
さようなら と バイバイという挨拶は

もしかしたら明日が

永遠の別れに

なってしまうかもしれないという

ニュアンスが含まれてるんではと

考えてしまう。

 

自分はばからしい

そんなふうに思う。

小学校の帰りの挨拶なんて

「先生、さようなら」というのが

一般的であり

「またね〜」が許されるのは

せいぜい反抗期の中学生がふざけて

担任や生徒指導の先生に向けて

使う時くらいまでであろう。

 

大人になるにつれて

「さようなら、失礼いたします」が

当たり前になり

「また」が聞けるのはお店くらいなのだ。

 

「またお越しくださいませ」

 

帰り際の店員のその言葉で

美味しかったらまた来ようとか

今度はいつ来ようかなどと考えたり。

 

機会があれば再びここを

訪れることが出来る、

いつでも待っていてくれる

気がするのだ。

 

それが永遠の別れであったとしても

 

言葉の選別は難しい

再び、また。似た言葉。

 

私は、またね と バイバイ

使い分けるであろう。

たまに間違うこと誤ることがあっても。

 

いつか私が

またね と言ったら
私はどこにいても

また同じように同じ場所へ帰ってくる。

 

でも
バイバイ、さようならと言ったら
私はもうここには戻ってこない。

 

 

 

 

 

私は写真がすごく嫌いだった。

 

うまく笑えない

他の子よりも背が高い

現社会でいう「盛れない」ことは

しょっちゅうだし

今も決して克服したとはいえない。

 

真実だけを映すもの...

写真はある一瞬をおさめたものだ。

二度と同じ空間は

作り出せないだろう。

 

あの時と同じ服装、同じ友達

化粧....天気。

すべてを揃えても同じ私をもう一度

作り出すのは難しいのだ。

 

だから人間は

一瞬一瞬を大切にし

子供の成長はいつでも目に見える

ある一種の「記録の一瞬」として

残していくのだろう。

 

昔の写真を見て

中には涙ぐむ人もいる。

その当時の記憶が一枚の写真によって

当人に蘇ってくるのだ。

 

生き別れた家族、突然失踪した

兄弟やペットを求め

尋ね人として張り出される広告。

 

自分にとって無関心なことであっても

その写真がふと目に入った時

同じ人間であることにより感じる

なにか良くわからない感情。

 

(かわいそう、早く見つかるといいのに

どうしていなくなったの?家族は待ってるのに)

 

一瞬のその表情や情景から

人間は深く読み取ろうとする。

私はその生まれ持った性質に

とても感動している。

 

けれど

自分にとって不都合であることまで

はっきりと映り

人が何気なく深く探ったことにより

人を傷つけることも時にはあるのだ。

 

「ホント背が高いよな〜お前」

「ひとりだけデブがいるぞ〜」

 

周りと比べられる写真に写った自分に

羞恥や、怒り悲しみを覚えた人も

少なくないだろう。

 

残酷なものだ

だけど人間はやはり

映った出来事を、写真を

大切にしてしまう。

 

盛れる角度、詐欺写メ

そんな言葉で自分をありのまま

映さない人は

きっと何かコンプレックスを

必死に隠して生きているのだろう。

 

肌が白くなりたいから

光を飛ばす。

そこに写った一瞬の私は

あくまで自分の理想なのだ。

 

ふと鏡を見ると

現実に引き戻される。

 

これから

もっともっと人は現実から

逃れ偽り生きていくのだろう。

 

私が、満足がいき笑えた写真が

もし撮れたとして

それすら偽りと思われることに

なるのだろうか。

 

写真はなんて残酷で

素晴らしいものなのだろうか。